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「いもの師」は鋳物師と書く。古くは「いもじ」と呼称した。つまり鋳物を作る職人のことである。
江戸時代の初期、前田利長は高岡城築城のおり城下づくりに当たり、近郊の西部金屋からすぐれた鋳物師七人を招いて、土地を与え鋳物業を営ませた。それを今に「金屋町七人衆」という。その子孫が現在も金屋町で鋳物工場を建て、鋳物づくりに励んでいる。
この歌碑は昭和8年11月、与謝野寛・晶子夫妻が孝夫歌碑招聘された折、この地にあった金森籐平の鋳物工場に立ち寄られた折に読まれたものである。尚、この歌碑は平成6年12月高岡市が建立した。
「鋳物師は、その仕事自身が楽しいのだろう。それは釜ひとつ作るにも、心魂を注ぎ込んで作るから、おのずと個性を含めた己が人間の一切が、尊作品に表れずにはいないのだ。」といった意味だろう。
さすが明星派の総帥だけあって、鉄幹―与謝野寛は、釜づくりに励む鋳物師たちの巣ざま恣意ばかりの仕事ぶりを見て、かくも深く、その職人魂の
おくが奥処にまで届く、すぐれた歌を作り得たのである。
しかも「みづからを釜ひとつにもいださんとする」というのは、すぐれて個性を重視する近代的思想をふまえた先駆的な表現だと言い得よう。
この歌は「かな屋」とあるが、これは金屋町のことを指すのではない。それは「鋳物師の作業場」つまり鋳物工場を指す。
したがって「われ入りて」は「ひろきかな屋に」とあるから、この「広い鋳物工場に入って」という意味だろう。そこで、大意は「そこに入って、鍋作りする爐(溶解路)の前に立って見ると、真っ赤な炎をあげている火があたかも夕日が燃えているように思えることよ。この広い鋳物の作業場では。」こういうふうに読める。
晶子は、広い鋳物工場に入って、さまざまな道具や製品が見える中で、ただ一つ炉の中に灼熱する炎だけを凝視する。その炎の一点に澄みいる凝視の中でかくえき赫奕たる夕日を思う。それは一見平易な歌い口ながら晶子の透徹した眼と卓越した表現のすごさに、改めて感じ入るのである。
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